こんにちは!ふーなみです。
長女が中学受験の時
という保護者が割と多かったように思いました。
精神的に成熟している子の方が向いていると言われる中学受験では「そういう子」の方が普通なのかもしれません。
当時の我が家の長女はまだ幼く、見た目てきにもランドセルがよく似合う小学生で、そんな娘が唯一受験に向いているところと言えば、幼さゆえの「素直」なところでした。
思春期に訪れる反抗期
あぁ、可愛かったなぁ。
と心のアルバムを開いては、たった1、2年ほどの子供の心の成長に驚くことばかりなのです。
受験とは関係ない話しですが、中学受験の年に確か東京には大雪が積もりました。
長女にとっては物心ついてから初めての大雪と言えるかもしれません。
あの時、近くの神社で無邪気に雪だるまを作り、豪快に雪に寝転んだり、家族で雪合戦した姿は6年生とは思えないほど子供らしく。
普段、大人から見ても難しい長文を読んだりしている子供とは到底思えないなぁ、とぼんやり思ったことが懐かしいです。
そう、現在我が家の長女は思春期まっただ中の反抗期中なのです。
素っ気ない態度が当たり前
我が家もいよいよ、中学3年生となりまたも受験生となりました。
長女の通う塾では、冬休みの冬期講習から中学3年生扱いとなり本格的に気持ちも引き締めていかねばという時期に入りました。
いくらこちらが意識をしても当の本人がその気にならないと意味がないのですが、今期から6クラスある中の1番上のクラスに上がることができました。中2の秋から女子はクラス分けの際、偏差値のバーが徐々に男子より上がり始めるのでいよいよ落ちるか、、とこちらの心配も余所に落ちるどころか、まだ上がったことのない最上位クラスにめでたく入ることができたことは心から褒めてあげたいものです。
いつもいつも家ではミノムシのように布団にくるまって勉強していないように見える長女もどこかで勉強していたのでしょうか?
褒めても、何を言っても無反応?
「頑張ったんだね。」といえば
「まあね。」
で会話が終了することもあれば、ツンと「うん。」で会話が終了することは日常茶飯事。






小学校6年生の中学受験時の態度を振り返れば、
随分と大人になってしまったものだ、、。
寂しくもあり、これでいいのだ。と思う複雑な母の想いが日々雲隠れするのです。
育児書でよく目にしてきた第二反抗期とは我が家に訪れるのだろうか?訪れないかもしれない、と疑っていた自分がいかにおめでたいバカ親だったか思い知ることになりました。
ただ子供のように素直だった長女はもう大人へと変わりつつあります。
中学受験と高校受験。
同じ受験でもサポートする側の親からするとまた違う難しさがあるのですね。
本人のモチベーションはもちろん応援する側も、我が子とはいえ日々冷たくされ続けると堪えるもの。
それでも今、長女を信頼し見守り続けることができるのは共に茨の道を歩んできた同志だからであると思っています。
信頼できる反抗期を築かせてくれた中学受験。
長女とは強い絆で結ばれている気がするのは中学受験のおかげだと思っています。
気がすると曖昧なのは長女の気持ちを聞いたことがないので、、一方的にこの文章を書いているわけですが気持ちは同じであると感じています。
小学校時代は思う存分遊んで過ごしてきた我が家が、初めて真剣勝負で取り組んだことが中学受験だったと思います。
始まりは小学校5年生の時、クラスで難しい問題を解きあっている同級生が目立つようになってきて、自然と勉強に興味が出てきたのが本格的に受験対策を始めたきっかけな訳ですが、、
それまで習い事はいくつかさせていましたが、どれも大好きなもので、必死にというよりはストレス解消や趣味の延長としての意味合いが強く。長女が「必死」という感覚を味わったのは中学受験が人生で初めての経験だったはずです。
辛く長く感じた中学受験を振り返ると、、
そんな私たち親子にとって中学受験は過酷の一言に尽きるほどつらく、当時はよく訳もなく「相対性理論」という言葉を連想させられるほど時の流れを鈍く感じさせられました。
何度も心が折れそうになりましたが、本人が途中退場はごめんという言葉を発していた以上、乗りかかった船。最後の結果が出るその日までやりきることに意味があるとその時を待ちました。
辛かったせいか、あの1年間の体験はよく、暑かっただとか、寒かっただとか、真夏のジワっとくる喉の渇きから、凍えるような寒い冬の塾の玄関や模試終了までの体感の記憶が鮮明に思い出されます。
何かよかった記憶と言ったら、模試の後のランチや講習の後の喫茶店での時間くらいなのですが、とにかく長女も私も必死に頑張った経験となったことが財産となったのかもしれません。
振り返れば、辛いことしかなかったはずなのに、幼くかわいい長女のことが今でも昨日のことのように思い出されます。
向き合う時間がくれた親子の信頼関係。
そして、あの時長女が勉強するうえで、
どういう勉強を好まず、
どう言葉をかけられるのが嫌であるか、好きか。
どういう勉強が向いているか、どこで本気が出るタイプか。
ということがある程度ではありますが理解できた気がしています。
なので、現在進行形で冷たい態度を取られても、私はそこまで不安や心配をすることなく安心して長女の第二反抗期というものを受け入れられているように感じています。
以前書いた記事にある通り、相変わらずスマホのYouTubeとテレビのAmazonプライム、時にEテレの童謡を大きな声で呑気に歌いながら3刀流で勉強している長女ですが、なんだかんだ大丈夫、そう思わせてくれることになった中学受験にはこういうメリットもあったのか、、と。
子供を信じることができない親へ
自分の我が子を信じる事なんて出来ない、そう思う親御さんもいると思います。
私はただの一主婦で何を語れる身ではありませんが、今まで我が子と信頼関係を築いてきた事を私流にまとめるのであればそれは、
これに尽きると思います。
どんなに裏切られようと、
嘘をつかれようと、
親は子にひたすら誠実である事です。
もし、誠実でいられなかった場合は謝ればいいのです。
誰もが、子供を持った瞬間から親にはなれません。
子供たちが分娩室で生まれたあの日から、ほとんど眠る事なく授乳やミルクを与え、寝かしつけをし、オムツ換えを行い、初めて歩いたその瞬間や入園式、入学式、卒業式、温かく柔らかい温もりに癒されここまで一緒に大きくなったことを思い出し、全てを受け入れてまた一から向き合う。それはどんな子にも親にも有効であると思っています。
初心に戻れば、小さな負の感情もたちまち何処へやらとチャラにしてしまえるのが子の持つ不思議な魅力です。
思春期になってしまったからと言って本質的なことは何も変わっていません。
信頼という言葉は、信じるに頼る。と書いて成り立つ事を改めてなるほどなと思うのです。
私は子供に誠実であることで、その返礼として子供から頼り、信じてもらうことを親として最大の喜びと幸福を感じているのだなと気付かされます。
私の持つこの価値観は世間的に見たら、ただの過保護で親バカなものであるかもしれません。けれど、学校の保護者の会話などはどうにも聞いていられないほど親が子に求めすぎているケースが多くあると思います。
親が子を遠い存在と思っているならば、子はもっと遠い存在と感じていることでしょう。昔、こんな話を聞いたことがあります。
心の片隅に残る印象深い話です。
子供の手が離れることは親にとって、心配や不安に期待と様々な感情の訪れを感じさせるものですが、大切な我が子の船が大海原で迷うことなく目的地に着くよう、私たち親は少しでも遠くまで照らすことの出来る灯台でありたいと願います。
話は飛びましたが、まもなく高校受験。
思春期を迎える子供と共に私たち親もさらに一回り親として成長していきたいですね。
子を持つ親の特権を感じる今日この頃です。
元SAPIX・日能研・四谷大塚の中学受験専門プロ講師が運営。
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こんにちは!ふーなみです。 窓を開ければ冬の匂い。 この時期になると否応なく思い出されるのが、中学受験の保護者たちとの世間話です。 娘の通っていた小学校は私から見た印象では比較的裕福に見える子供が多く、アナウンサー、女優、俳優、お医者[…]